「等音面の理論」は,音響対称性の概念に基づいた「等音面」の数理物理学的研究の導入についてのもの である.筆者論文「音の作る形」において,従来のヴァイオリン製作法とは根本的に異なる方法を提示した.それは形から音を決定するのではなく,音(タッ ピングトーン)から形を決定するという方法であった.これこそ共鳴の原理に立脚した方法であり,等音面(音響的な対称性)なる概念に導かれた.
ま た,圧電スピーカーを利用する測定方法により,タッピングトーンに基づく制作法が科学的に正当化された.測定により明らかにされたのは,等音面が,見事に 共鳴板の各点において同一の振動数分布を示したという事実である.また,同様に,等音面でない共鳴板は,固定端(外枠)が同じでも,共鳴板の各点の振動数 分布は全く異なっていることがはっきりと示された.この結果を踏まえて,等音面の実現が,ヴァイオリン制作上の根本原理になりうることを示した.
そこで本稿では,音響対称性という概念をより抽象化,厳密化するために,等音面の数理的研究に着手する.我々の実験が明らかにしたことは,音響対称性を高く していくに従って,共鳴板の各点における振動数分布がある一つの分布状態に収束していき,またその時,物理的,幾何学的形状が,ある理想形体に収束してい くという事実である.
そこで次のような命題を立てることができる.
「理想等音面とも言うべき音響対称性が最も高い状態の振動数分布とは一体どのような分布に収束していくだろうか?またその時の幾何学的形状は?」
少し考えれば,その振動数分布状態はホワイトノイズ型になるであろうと予想される(ホワイトノイズ型の定義はあとで行うものとする).また,幾何学的形状 は,ある操作の極限として定義される対象物となる.このような命題を数学的に定式化し,実験事実と論証によって証明を与え,厳密な演繹体系を構築していく のが本稿のテーマである.
等音面及び音響対称性の数理を解析していく過程において,非常に豊富な数学的構造が隠れていることを明らかにする.
従来の音と形に関する数理的研究で有名なものは,Kacの論文「Can one hear the shape of a drum ?」に代表される等スペクトル問題の研究がある.本稿における研究手法は,それらの先行研究と本質的に異なるものである.Kacに代表される音と形の研究 は,純数学的に演繹されたものであり,微分方程式の境界値問題として,定式化されたものである.しかし我々の出発点は,物理的実証実験で得た結果より帰納 的にその数理を構成していくところにある.
等音面を構成する方法は「部分と全体の情報を同時に含む響きという量:タッピングトーンに基づいたものであり,非線形問題の典型であることも重要な論点である.
また,等音面の実現には,和声法等の音楽理論が本質的な役割を果たしている.我々の構築する数学的理論が,物理的実験結果のみならず,これら音楽理論との整合性を図るものであることを示すことができる.
以 上のような観点から,Kacらの研究との比較について論じ,スペクトル幾何学からは決して演繹することができないであろう数学的構造の存在を示す.また, ホワイトノイズ解析などのホワイトノイズの定義も,本稿に出てくるホワイトノイズの定義と基本的に異なる.我々のホワイトノイズの定義は,操作の理想極限 として定義される.そして,それが互いに素な振動数比の無限集合を構成することを示す.この無限集合は比の集合であり,スケール変換普遍という性質を持 つ.
我々の研究は,あくまで,実験事実から得られた事実から帰納的,発見的に数理を構築していく数理物理学的な研究手法であり,既成事実から演 繹 される純数学的な研究手法ではないことを強調しておく.また,ここで示された実験事実は,筆者論文「音の作る形」において初めて示されたものである.
まず初めに,実験結果からタッピングトーンが「響き方」を測る量であることを数学的に定式化することから始める.
「音 を聞いて削る」という操作を定式化することにより,連続群の構造を持つことを示す.この連続群を音響変換群と名づけ,それが作用する空間を関数空間の特別 の場合として定義する試みをする.この変換群における不変量が「ホワイトノイズ不変量」であることを示し,その時,リーマン面の理論における一意解 析接続と「音を合わせて掘る」という操作が形式的に一致することを示す.
また,幾何学的形状が操作の極限として現れる数学的構造を示し,その結果,数学の異なる概念の間に橋を架ける試みをする.新たに導入された概念については「定義」を与え,若干の「公理」と「共通概念」を仮定しさえすれば,全ての事実はそこから導かれるような形式公理系の 研究も並行して進める.
物理学の公理化は,あまり意味をなさないという意見もあるが,本研究のような数学,音楽,物理学が横断するような対象に関しては, 有効な研究手法であるように思える.等音面の実現には生理的反応に基づく和声学的な事実を公理としなければ不可能である.しかるに,等音面の実証,測定に は,その公理は不要である.これは,科学とは何か?音楽とは何か?という学問の境界を示すことにもつながる研究にもなると思われる.公理をどこまで仮定す るかによって,各学問分野が重なるところ,独立なところをはっきりさせることができるということで公理的研究は意味があるのである.楽器制作研究は,音楽 と数学,物理が衝突する大変興味深い研究対象なのである.
本論文は,筆者論文「音の作る形」[1],「等音面の理論」[2] の研究を踏まえ,発展させたものである.したがって本論に入る前に [1],[2] の簡単な内容説明をしておく.[1] において,従来のヴァイオリン製作法とは根本的に異なる制作法を提示した.それは,形から音を決定するのではなく,音(タッピングトーン)から形を決定するという制作法であった.これこそ共鳴の原理に立脚した方法であり,等音面(音響的な対称性)なる概念に導かれた.また,圧電スピーカーを利用する測定方法により,タッピングトーンに基づく制作法が科学的に正当化された.測定により明らかにされたのは,等音面が,見事に共鳴板の各点において同一の振動数分布を示したという事実である.また,同様に,等音面でない共鳴板は,固定端(外枠)が同じでも,共鳴板の各点の振動数分布は全く異なっていることがはっきりと示された.この結果を踏まえて,等音面の実現が,ヴァイオリン制作上の根本原理になりうることを示した.また [2] において,音響対称性という概念をより抽象化,厳密化するために,等音面の数理的研究の導入を試みた.我々の研究は,あくまで,実験事実から得られた事実から帰納的,発見的に数理を構築していく数理物理学的な研究手法であり,既成事実から演繹される純数学的な研究手法ではないことを強調した.また,そこで示された実験事実は,[1] において初めて示されたものであった.実験結果からタッピングトーンが「響き方」を測る量であることを数学的に定式化し,「音を聞いて削る」という操作が連続群の構造を持つことを示した.この連続群を音響変換群と名づけ,それが作用する空間を関数空間の特別の場合として定義する試みをした. また,等音面の実現には生理的反応に基づく和声学的な事実を公理としなければ不可能であるが,等音面の実証,測定には,その公理は不要であることにも触れた.本論考の一つの動機として,この和声学的な事実に基づく公理を前提としないような,同値な理論が存在するか?という問題意識がある.すなわち,物理測定によって得られる観測可能量だけで等音面を構成することができるか?という問題である.こうした問題意識が,等音面という幾何的特徴を,その上で Brown運動する粒子の挙動によって特徴付けるという本論考に導いたのである.以上,[1],[2] の研究を踏まえ,本論考の内容に移る.膜の固有振動を視覚化する方法として Chladni 法というものがある.Chladni 図形は,振動する板に砂状の粉を撒いたときに現れる図形であり,波動方程式の境界値の解である固有関数の節に砂が止まって,節線が浮かび上がってできる図形である(とされる).
これを数学的に定式化したものが重調和作用素の固有値問題である.これらの数学的研究は,あらかじめ,境界値さえ決めておけば,それに対応する固有振動数(固有モード)やそれに対応する固有関数の節線(Chladni 図形)が存在しているかのように研究が進められる.しかし,実際の楽器制作の現場において,共鳴板の固有振動数列をいかに増やしていくか?そのためにどのように共鳴板の形を決めていくか?が問題になる.固有振動数列がどのように増えていくか?という問題に対し,これら波動方程式の固有値問題は無力である.そこで開発された方法が,和声学理論に基づいたフォノグラム図形である.これは物理的な意味における観測可能量ではないため数学定式化が困難である.本研究は固有振動数に対応する砂粒の挙動(Chladni 図形)のみならず,ホワイトノイズや和音関係にある振動に対応する砂粒の挙動に着目することにより,等音面が,粒子の Brown 運動場である,とみなすことができることを示す.
一つの等音領域を一つの確率過程場とみなし,非等音面は異なる確率過程場の連結列として定式化することがでる.Chladni 図形を浮かび上がらせる過渡的な情報が,砂粒の挙動に現れていることから,それが従う拡散方程式を基にした理論は,重調和作用素の固有値問題としての Chladni 法の定式化よりも,多くの情報量を含むことが予想される.また,粒子の挙動は,物理的に観測可能量であることから数学的取扱いが比較的容易である.まず,等音面を L2 空間として定義し,等音面上の振動数分布と Brown 運動の確率密度関数が同等であることを示す.次に,そのような確率測度が存在することを Paley-Wiener の定理Ito-Nishio の定理によって証明する.つづいて,等音領域の概念を説明し,非等音面を等音領域の合併として定義する.非等音面に対応する確率過程は,外力の働いている確率過程を考えねばならず,時間対称化した拡散方程式や三つ組みの正規性などの概念を導入しなければならない.等音面上の確率過程が,ドリフトのない一様なランダム運動であるならば,非等音面上の確率過程は,ドリフトの加わった,推移確率密度関数が異なるランダム運動に対応する.前者は古典的拡散方程式に従い,後者はランダム運動の発展方程式に従う.ランダム運動の発展方程式を複素数表示すれば Schrödinger 方程式になることからホワイトノイズを流した非等音面上の粒子の挙動は,Schrödinger 方程式に従うことが結論される.以上の定式化を踏まえて,干渉という物理現象が,波動論特有のものでなく,確率過程の絡み合いとう現象からも説明することができることを紹介し,その観点から Chladni 法を再考する.確率過程の絡み合いにおいて,ランダム運動の発展方程式の複素数表示であるSchrödinger 方程式が本質的に重要である.
単振動のドップラー効果を,ある振動数分布を持った音源にまで広げて考えてみる.音源のパワースペクトル(振動数分布)がホワイトノイズである場合やパワースペクトルの形が並進対称の場合を考える.ただし,ここで言うパワースペクトルとは,振動数を Fourier 変換し,その絶対値を二乗したものである.従って,並進対称なパワースペクトルとは,
\begin{equation*}
|\mathcal{F}(f)(\xi+\eta)|^2 = |\mathcal{F}(f)(\xi)|^2
\end{equation*}
となるような分布である.
まずホワイトノイズについて定義を確認する.ホワイトノイズとは,不規則に上下に震動する波であり,通常可聴域のホワイトノイズをさすことが多い.Fourier変換を行い,パワースペクトルにすると,全ての周波 数で同じ強度となる.これは Wiener-Hintchine の定理から,自己相関関数がデルタ関数となることと同じである.統計学の言葉で言うと,定常独立であることを意味している.なお厳密には自己相関関数にデルタ関数といった無限を含むものは実在し得ないので,理想的なホワイトノイズは実在しない.数学的には以下のように定義される.
【定義】以下の2つの条件を満たすような\(w(t)\)をホワイトノイズと定義する.
\begin{align}
\mu &= E[w(t)]=0\\
R(t_1,t_2)&=E[w(t_1)w(t_2)]=\sigma ^2 \delta (t_1-t_2)
\end{align}
ただし,\(\sigma ^2\)は\(w\)の分散で,\(\delta\)はDiracの\(\delta\)関数である.一つ目の式は平均ゼロを表し,二つ目の式は自己相関は\(\sigma ^2\)であり,相互関係はゼロであることを表している.
自己相関(\(\delta\)関数)をFourier変換すると,ホワイトノイズのパワースペクトルが得られる.
\begin{equation}
|W(\omega )|^2=\sigma ^2
\end{equation}
パワースペクトルの値は\(\omega\)に依存しないので,全ての周波数で一定の値になっている.
次にドップラー効果とは,波の発生源(音源,光源など)と観測者との相対的な速度の存在によって,波の周波数が異なって観測される現象を言う.発生源が近づく場合には波の振動が詰められて周波数が高くなり,逆に遠ざかる場合には振動が伸ばされて低くなる.
【ドップラー効果の定義】観測者も音源も同値う直線上を動き,音源\(S(Source)\)から観測者\(O(Observer)\)に向かう向きを制とすると,観測者に聞こえる音波の振動数は,
\begin{equation}
f’ =f \times \frac{V-v_o}{V-v_s}\;\;\;\;\;\;\; (1.2)
\end{equation}
となる.ここで,\(f\)は音源の出す音波の振動数,\(V\)は同質媒質中の音速,\(v_o\)は観測者の動く速度,\(v_s\)は音源の動く速度である.
以上を踏まえて,ホワイトノイズは見かけ上,ドップラー効果の影響を受けないことを議論する.音源が単振動\(f\)の場合,ドップラー効果により, (1.2)式で表される振動数\(f’\)となる.ここでパワースペクトルを考える.この時,全ての振動数成分が音源と観測者の相対速度によって,パワースペクトルがシフトしたものと見なすことができる.また,この議論は和音の場合に対しても同様である.以上をまとめ,ホワイトノイズに対して適用すると,次のような命題を考えることができる.
【命題】観測者と相対的に等速直進運動する音源がホワイトノイズである場合,全ての観測点においてドップラー効果の影響を観測することが出来ない.ここで観測点とは音源と観測者の相対位置のことをさす.
【証明】ある単一の振動数が音源であり,観測者も音源も同一直線状を動き,音源\(S\)から観測者\(O\)に向かう向きを正とすると,観測者に聞こえる音波の振動数は, (1.2)式となる.
パワースペクトルが任意の音源の場合,各振動数成分は (1.2)式により任意に平行移動した分布になる.この場合,ドップラー効果の影響は単振動の場合と同じく,観測される.
定義より,ホワイトノイズのパワースペクトルは全ての振動数に対して同じ強度を持ち,
この場合も (1.2)式により,各振動数は平行移動することになり,分布の形が保存される.
しかも,全ての振動数に対してその強度が等しいため,見かけ上,平行移動は検出されない(実際には各振動数がそれぞれシフトしている).従って,ホワイトノイズ音源はドップラー効果によって見かけ上影響を受けないということが結論される.□
【命題】音源のパワースペクトルが並進対称である場合,見かけ上,ドップラー効果を検出することができない観測点が存在する.
【証明】音源のパワースペクトルの周期を\(\omega\)とする.すなわち,
\begin{equation}
|\mathcal{F}(f)(\xi + \omega)|^2=|\mathcal{F}(f)(\xi)|^2
\end{equation}
となるような\(\omega\)である. (1.2)式より,\(f\)のドップラー効果により得られた振動数を\(f’\)とすれば,
そのパワースペクトルは\(|\mathcal{F}(f’)(\xi)|^2\)となる.しかし,音源のパワースペクトルは並進対称であるから,ドップラー効果を考えたとき,任意の\(\xi\)に対して
\begin{equation}
|\mathcal{F}(f’)(\xi) |^2=|\mathcal{F}(f)(\xi + \omega )|^2
\end{equation}
とならなければならない.従って,
\begin{equation}
|\mathcal{F}(f’)(\xi )|^2 – |\mathcal{F}(f)(\xi) |^2=|\mathcal{F}(f)(\xi + \omega )|^2 – |\mathcal{F}(f)(\xi )|^2=0
\end{equation}
となるので,ドップラー効果により得られたパワースペクトルと,音源のパワースペクトルは一致する.以上により, (1.2)式ではシフトが検出されず,見かけ上ドップラー効果が観測されない.□
従って,ドップラー効果が検出されるのは,\(|\mathcal{F}(f’)(\xi )|^2 – |\mathcal{F}(f)(\xi) |^2 \neq 0\)となり,シフトする時である.